黄色い豚@日立柏酒場裏(ライブドア・ブログ公開版)

https://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda からhttps://reywa.blog.fc2.com/ (2019年8月29日以降の私のメイン・ブログ)に移行したデータを用いて、更に、ここに移行しました。 データの由来(成り立ち)の詳細は、http://reywa.weblog.to/archives/5241451.html を ご覧下さい。 FC2ブログから毎月のバッチ処理で当ブログにデータ移行している故、FC2ブログで追記のある記事などは、こちらに反映されていない事が多々あります。ご注意下さい。

① レイソルのマークは言わずと知れた、日立のマーク(あの読めないヤツ)からの着想。で、太陽(soleilとかでsolの方)と王(reyの方。何語かな?イギリスでは王を表す法律用語はregis【レジス】、女王はregina【リジャイナ】だったりするが。どっちもラテン語)の造語でレイソルになってる訳だが。

② レイソルのマークの真ん中は「R」。レイソルだからだろうけど、何かR指定を連想してしまう。選手が太陽王なら、サポは裸王(ラ王)ってか?ラーメンじゃあるまい。

③ 何時も疑問に思うんだけど、キャラクターのレイ君(昔、レイナちゃんってのもいたと思うが)て何から着想を得てるんだろ?鳥山明さんが作ったのかも知れないけど、あの頭はトサカ?でもって、辛うじてカシワ(鶏)?
 日立柏サッカー場北門の緑が丘交差点の交番前にレイ君の銅像が建ってますが、最初、あれは昆虫だ~!とか散々に言われてたもんです。今は、どうなんだろ?

④ 柏レイソルをひっくり返した、柏ソレイルってチームが女子サッカーにありますね。

⑤ 太陽王つながり。ルイ14世との関係は?

⑥ 同じく、太陽王つながり。太陽神ってったら、エジプトのラー神でしょうけど(さっきの裸王と重なるな~)、イスラームのアッラー(al'lar…最初のalは冠詞。)と関係はあるんだろか?

⑥ で、エジプトの太陽神とファラオ(エジプトの王でんな)との関係について、連想。
 両者の関係は、エジプト第4王朝と第5王朝とでは異なる。
エジプト第4王朝…ファラオはピラミッドの中で太陽神に生まれ変わる。
エジプト第5王朝…ファラオは太陽神に仕える存在(具体例:太陽神殿の方がピラミッドより高くなる…ニウセルラー王の時代みたいに)。つまり、神とファラオは分離。
 Pyramidは登場して100年で技術の粋を極め、150年で衰退した(石材の品質、加工精度、組み立て精
度の低下→時間経過により、現在では崩壊)訳だが、時代が下って、第12王朝アメンエムハト1世のピラミッド(ってより、石窟?B.C.1950頃)辺りになると、昔のpyramidを壊して石材を再利用。昔の全盛期の王のpyaramidには霊的な力があると信じられたからと推定されている。
 更に時代が下り、エジプト第26王朝頃になると、復古的な傾向を持ち、クフ王を崇拝し、クフ王の像が仏像のごとく【仏教は決して仏像を信仰してる訳じゃありませんぜ。仏像は意識を統一するための手段。それを通して、背後の仏に意識を通ずる。創価学会だと、この仏像は、日蓮さん流の文字で構成された曼荼羅になりますな】信仰されるに至った。日本会議はエジプト第26王朝か?明治時代の崇拝か?


先ずは、柏レイソルHPからコピー(転載)。

[石崎信弘(いしざき のぶひろ)監督プロフィール]
■生年月日 : 1958年3月14日
■出身地 : 広島県
■選手歴 : 1976年~1980年 東京農業大学サッカー部
1980年~1993年 東芝サッカー部(DF)
■指導歴 : 1995年~1998年 モンテディオ山形 監督
1999年~2001年5月 大分トリニータ 監督
2001年7月~2003年 川崎フロンターレ 監督
2004年 清水エスパルス ヘッドコーチ
2004年7月~ 清水エスパルス 監督
2005年 東京ヴェルディ1969 トップチームコーチ
(2005年7月 監督代行)

次に、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B4%8E%E4%BF%A1%E5%BC%98から。
(今回の柏レイソル監督就任に伴い、編集によって、文面が変更されると思うので、以前の文面を転載【コピー】しておきます)

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【選手時代】

現役時代のポジションはディフェンダーであった。

県立広島工業(通称・県工)時代は金田喜稔、木村和司、猿沢らとスペクタクルなサッカーを展開し高校選手権でベスト4。かつて御三家と言われながら、永らく低迷が続く広島高校サッカーが最後に輝いた瞬間だった。その後東京農業大学を経て1980年に東芝サッカー部(コンサドーレ札幌の前身)に加入。1993年に現役引退した。

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【指導歴】

1995年に当時JFLであったモンテディオ山形の監督に就任。4シーズンの指揮・指導の結果、1998年には優勝争いを繰り広げ、山形をJFL3位にまで押し上げる結果を残した。

1999年、発足したばかりのJ2に加盟した大分トリニータに招聘され、監督として就任。同年の最終節を前に2位に浮上し、勝てば自力で昇格を決めることが出来たが、最終節で奇しくも古巣の山形に引き分けという形で行く手を阻まれ、勝ち点1の差で惜しくも3位にとどまった。翌年2000年も再び勝ち点1差で3位に終わり、2001年シーズンはスタートダッシュに失敗したためシーズン途中で解任される。

しかし、その直後の同年7月、J2に降格し低迷する川崎フロンターレの監督に就任。2002年には川崎を4位に押し上げ、2003年には最終節まで昇格争いに絡みながら、またしても勝ち点1差に泣き3位に終わる。同年の天皇杯を最後に辞任。

2004年、清水エスパルスのヘッドコーチとして初めてJ1に関わることとなった。同年7月にはアントニーニョ監督の辞任に伴って監督に昇任、J1で初采配を振るうことになったが、セカンドステージは16位中14位に終わり、チームを立て直すことができず辞任。

2005年には東京ヴェルディ1969のヘッドコーチに就任したが、7月19日、オズワルド・アルディレス監督が成績不振(前半戦終了次点で17位と低迷)の責任を取って解任されたことを受け、急遽監督代行に就任した。

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【評価】

J2において勝ち点差1での昇格失敗を3度重ねたことから、悲運の名将とも言われる。しかし、彼の戦術の基本が「相手の良い所を消す」ことにあるとも言われており、それが故に対策された時にもろく、勝負強さという面では問題があるのではと指摘する声もある。

一方で、若いチームを育てて近代的なサッカー戦術を浸透させ、長いリーグ戦を戦い抜くチームを作り上げる能力については評価が高い。また、特にJFLやJ2の貧弱な環境においても工夫と熱意で練習環境を整備する姿勢は、関係者やサポーターからも好意的に受け止められている。


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【トピックス】

サポーターやインターネットコミュニティではノブリンと呼ばれる。これは本人が親戚との会話で、冗談で「ノブリンと呼んで」といったのに由来する。ちなみに「ノブリン」の愛称はフォークソングデュオ「あのねのね」のメンバー・原田伸郎が自らをこう呼んでいたのを借用したとのことである。
2003年に川崎フロンターレのJ1昇格を、わずか勝ち点1差で逃したため辞任したが、その後に行われた天皇杯ではホームグラウンド・等々力陸上競技場で最後の試合となる第2回戦(国見高校戦)終了後にサポーターの前で挨拶をした際、その終了後にグラウンド内に大量に進入したサポーターらによって胴上げをされた。
アナウンサー渡辺真理の大ファンである。

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【監督経験に於ける前任者と後任者】

NEC山形サッカー部
モンテディオ山形監督
1995-1998
先代: 杉澤直樹
次代:植木繁晴

大分トリニータ監督
1999-2001途中
先代: フォルミーガ
次代:小林伸二

川崎フロンターレ監督
2001途中-2003
先代:堀井美晴
次代:関塚隆

清水エスパルス監督
2004途中
先代:アントニーニョ
次代:長谷川健太

東京ヴェルディ1969監督(代行)
2005途中
先代:オズワルド・アルディレス
次代:バドン


参考:大木武氏の経歴(ヴァンフォーレ甲府の発表から)
1991年8月~ 東京農業大学サッカー部コーチ
1993年4月~ 清水エスパルス ユース監督 兼 ジュニアユースコーチ
1994年2月~ 清水エスパルス サテライト監督
1995年2月~ 清水エスパルス サテライトコーチ
1996年2月~ 清水エスパルス コーチ
1997年2月~ 清水エスパルス コーチ 兼 U-21監督
1999年2月~ 清水エスパルス ヘッドコーチ[※1]
2001年2月~ 清水エスパルス コーチ 兼 サテライト監督
2002年2月~ ヴァンフォーレ甲府監督
  ※2002年J2 16勝10分18敗 勝ち点58 第7位
2003年2月~11月 清水エスパルス監督
  ※2003年J1 1st 5勝3分7敗 勝ち点18 第11位
  ※2003年J1 2nd 6勝3分6敗 勝ち点21 第10位
2004年2月~ 川崎フロンターレ U-18監督
  ※Jユースカップ2004決勝トーナメント進出
2005年~   ヴァンフォーレ甲府監督

[※1]ペリマン監督一時帰国の際に監督代行として指揮を執る
1999ヤマザキナビスコカップ2回戦
第1戦(6/12 vs京都 於:西京極 ●0-1)
第2戦(6/19 vs京都 於:日本平 ○2-0)

参考①:他の方のブログ記事での注目すべき石崎情報:レイソル監督就任決定!
http://blogs.yahoo.co.jp/reysol_sapo/20997731.html
 


柏レイソルのGMが2005年12月19日に決定し、着任したと思ったら、その翌々日には監督が決まっちゃいました。石崎信弘氏(「ノブリン」)です。
 GMだけの決定ではなく、従来のフロント体制(監督代行としての竹本一彦氏【現・GM】を含む)の中で検討されて来たものなのでしょうね。
http://www.reysol.co.jp/news/2005/newslog/051221_1.html
http://www.reysol.co.jp/news/2005/newslog/051221_2.html

 前・東京ヴェルディ1969ヘッド・コーチと云う経歴から、責任を取って辞任がぐるっと一回りしてた互助会人事の様な気もします。ラモス(前・柏レイソルコーチ)は東京ヴェルディへ、東京ヴェルディでは都並氏(前・ベガルタ仙台監督)を含むヴェルディ出身者で固めた体制を作ったせいで、石崎氏があぶれ、今度はトレードの様な感じで柏レイソルへ、ってね。
 ヴァンフォーレ甲府の大木武監督との因縁もかんじさせる方です。同じ東京農業大学出身。でも、石崎氏が卒業した翌年、大木氏は東京農業大学コーチに就任。大木氏は、選手としては富士通(現・川崎フロンターレ)で活躍した方でしたが、東京農業大学コーチの後は、清水エスパルスで指導者としての経験を積む。清水エスパルスの子分の位置づけにあった(2005年までは、エスパルスドリームプラザはヴァンフォーレ甲府のスポンサーでもありました)ヴァンフォーレ監督の監督に就任し、その成果を以て清水エスパルスの監督に就任。が、上手く行かず、解任。その後、川崎フロンターレU-18監督となるが、甲府から再度招請され、2年で(柏レイソルを破り)J1昇格となる訳です。
 この、清水エスパルス監督のところで、大木氏と石塚氏、そしてレイソルの歴史に残るメンバーが密接に絡み合います。清水エスパルスで大木氏はペリマンの下でヘッド・コーチを務め、ペリマン一時帰国の際は監督代行を努めた事もあります。この辺りの清水エスパルスの監督の変遷を見ると、

1996年1月~1998年11月、アルディレス監督【悪い監督じゃないんだけど、今季初めの東京ヴェルディ1969の監督】、ペリマン【飽くまでもコーチでしかない】、ヘッド・コーチ体制

1998年12月~2000年12月 ペリマン監督【1999年清水エスパルス年間勝ち点首位、2000年柏レイソル年間勝ち点首位】【ペリマンは、2001年7月に西野朗監督の下で柏レイソルのヘッド・コーチに就任、3試合後の2001年7月西野監督解任により2002年8月まで柏レイソル監督】

2000年12月~2002年12月 ゼムノヴィッチ監督

【2003年1月15日 元・柏レイソルGM久米一正氏の清水エスパルスGM就任…役職名としては取締役強化育成本部長だった筈だけど…まだやってるかな? 】

2003年1月~11月 大木武監督 ←← ここ大事!
2003年11月~12月 行徳浩二監督
2003年12月 アントニーニョ監督就任【元・柏レイソル監督→総監督】
2004年1月~6月 アントニーニョ監督、石崎信弘ヘッドコーチ体制 ←← ここ大事!
2004年6月~11月 石崎信弘監督 ←← ここ大事!
2005年1月~ 長谷川健太監督

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石崎氏はJ2で「勝ち点差1での昇格失敗を3度重ねた」経験の持ち主ですが、4度目は一年でJ1昇格を決めちゃって下さい。
 レイソルは2005年、フロントも監督も、サポーターも、挙げ句には選手も、大企業病にかかったかの様でした。フロントはしっかりとした判断が出来ず、お金を無駄に費やし、監督は原因分析は出来ても有効な手は打てず、サポーターは監督にブーイングを浴びせるばかり。でもって、選手はぬるま湯に浸かっていたかの様。

 色々、思うところはありますが、しっかりと応援して行きたいと思います。 ←← ここ大事!
別の記事にしますがWikipediaでの評価「若いチームを育てて近代的なサッカー戦術を浸透させ、長いリーグ戦を戦い抜くチームを作り上げる能力については評価が高い。また、特にJFLやJ2の貧弱な環境においても工夫と熱意で練習環境を整備する姿勢は、関係者やサポーターからも好意的に受け止められている」は心強いお言葉。

当ブログ内関連記事:【参考】柏レイソル次期監督 石崎信弘氏の経歴
http://blogs.yahoo.co.jp/ubiquitous_budda/20277952.html


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