2020年2月1日22:00~22:28、TV東京系で放送されていた、美の巨人たち「榮久庵 憲司『キッコーマン醤油卓上瓶』×片桐 仁」は、いい番組でした。

 が、その中に、直ぐに判る、明らかな間違いが混じっていたので、ご報告。それは、片桐仁が、キッコーマン醤油卓上瓶を街のスーパー(PB FARM佐竹店)で購入する冒頭に続き、「新美の巨人たち」のタイトルが流れてからの部分。

 今日の作品のふるさとです。

 千葉県野田市は江戸時代から続く、醤油の町。野田で作られた醤油は、運河を使って江戸の町に運ばれ、大いに繁栄したのです。


のナレーションと共に、次の映像が流れます。
beea1a39.jpg

この画面での文字説明で「醤油は利根運河から江戸川を通り 船で江戸へ運ばれた」とあります。東京=江戸である、とすれば、間違いではないのかも知れません(利根運河を通った野田産の醤油があったか、は疑問)が、江戸時代しか江戸ではない、明治時代以降、もしくは東京奠都(日本には、東京を首都と定めた明確な法律は存在しません。東京が首都である事を前提とした法律は、あまたありますが。それ故、東京奠都以降暫くは、京都を「西京」と書いた記述も見られます。京は、意味としては、「みやこ」。京都も、同じ意味であり、中国語でも同じでした)以降は東京である、とするのならば、これは「明らかな間違い」となります。

 と言うのは、利根運河は、明治になってから計画され、開削されたものだから。建設決議が1887年11月、建設開始が翌1888年7月、運用開始が1890年6月(https://ja.wikipedia.org/wiki/利根運河 参照)と云う代物です。「もう舟運の時代ではない」「町を分断する事になる」との反対の声もある中、建設された代物で、実際に舟運に利用されたのは20年ほど。
 この工事を監督したのは、御雇外国人のムンデル。まさに明治になっての代物。

 そもそも、野田の醤油産品は、運河を通る訳でなく、江戸川方面の河岸から出荷されていた筈です。辛うじて、野田と関連して運河を通ったと考えられるのは、野田醤油(キッコーマンの前身)が花野井醤油(オーナーは吉田家。現・柏市に立地)を買収(1922年 http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/280400/p022092.html 参照)して、野田醤油株式会社 花野井工場としていた時代の製品でしょうが、それとて江戸時代じゃなく、大正時代の話。花野井醤油時代には、醤油も運河を通っていたんでしょうし、銚子の醤油も利根運河を通って運ばれた時代があったのかも知れませんが、野田醤油 花野井工場時代には、既に、運河を通って運搬されていたか否か、は怪しいものです。

 なお、江戸時代、現・江戸川(江戸時代には、江戸川と言えば、神田川中流部でした。飯田橋から上流部で、現・江戸川橋駅 周辺に至る部分や、更にその上流部辺り。それ故の「江戸川橋」や「江戸川公園」です)からの舟運は、小名木川を通るのが通常ルートでした。小名木川は運河であり、また、江戸市中 東部は、運河が隅々まで巡らされていました(八丁堀などの例も)。ナレーション部分は、それを考えて記述された原稿かも知れません。それを画像にする際に、利根運河と誤解し、映像に変なものが混じる結果となったのかも…(単なる推量ですが)。

 ついでに申し添えますと、この現在の利根運河の川幅が、高瀬船などによる舟運を連想させ、「江戸時代」との誤解を生むのかも知れません。が、開通当初の利根運河は、水位を調整する為の閘門(こうもん。知らない人は、検索してみて下さい)を持ち、満々と水を湛えていました。それ故、蒸気客船なども往来出来たのです。現在は、閘門は撤去されていて、水門としては、利根川との間に一つあるだけ。ですので、水位を高く保つ事は出来ません(水位を保ちながら通貫しての水運を可能にする為には、利根川と江戸川の両方の端に少なくとも2つずつの水門が必要)。現在は、環境整備の為に渇水時には敢えて水を流し(利根川は、河口部にある利根川河口堰=利根川大橋+常陸川大橋がダムとして機能し、水を溜める構造になっていて、利根運河辺りまでの水位は、そこで調整されています)、増水時には、利根川の水を江戸川経由で放水する役目を担っています(江戸川に流せないときは閉め切るだけの話)。
 蛇足ではありますが、印象派の絵画で描かれる、満々と水を湛えた川の風景は、多くの場合、近代になって、堰+閘門の整備によって実現された、当時としては、比較的新しい風景であって、昔からの風景って訳ではありませんでした。ヨーロッパの川が、日本の川と較べれば勾配が緩やかだとは言っても、昔は、増水時には水が溢れんばかりになる(時には溢れた)一方、渇水時には水がちょろちょろとしか流れないところが大部分だったのです。印象派の描く風景は、「新しい近代の風景」を描いている面も結構多い事を無視しちゃイケマセン。印象派の描く風俗にしても、そう。
 
 ちなみに、同番組で、上の映像の前に流れていた、この「大日本物産図絵(会)」も、明治時代になってから、内国産業博覧会の開催と共に制作されていったものではあります。
fb374dd3.jpg

別に、江戸時代の作品って言ってる訳じゃないから、ここに間違いがある訳じゃないけどね。
 この絵の中で、亀甲の中に万の字があるのは、野田醤油成立前の醤油醸造家である茂木佐平治家のブランド。野田醤油やキッコーマンのブランドマークは、これを受け継いだ(字は萬にした)もの。野田醤油は、野田の醤油醸造会社(家)8家の合同して成立させた会社で、野田の醤油醸造家でありながら、この合同に参加せずに現在でも存続している会社としては、キノエネ(甲子)醤油があります(柏にあった花野井醤油も、野田醤油には参加しなかったが、後に買収された)。野田醤油設立時に、野田にあるか否かが決定的な要因でなかった事は、流山にあった味醂醸造家の彫切家がこの合同に絡んでいる(野田醤油を設立したのは厳密には7家となるが、彫切家が野田醤油の資本を受けて、同じ月に万上味醂を設立。7年後に合併)事からも判るかと思います(ここら辺、具体的に何が7家なのか、とか、私の中で不明確な点もあるので、詳しい方いたら、コメントで教えて下さい。キッコーマンの家系に属する知人に、直接確認する気にはならない。もしそれをしてしまうと、間違っていても、取り敢えず、その発言の通り、書かなくちゃいけなくなりそうで…疑問を感じたりする曖昧な点について「証拠を見せろ」とは言いにくいw)。